Aさんが救急医療センターに来たのは、「医者にしか言えないこと」があるからだ。
その夜はたくさんの患者さんが来ていて、救急医療センターは蜂の巣をつついたような状態になっていた。
Aさんは30代後半の女性でTシャツと灰色のジーンズを履いていた。救急医療センターの順番待ちをしている間、椅子に座って両耳を手で押さえながら前後に体をゆすっていた。
Aさんの順番が来たとき、センターのベッドはすべて埋め尽くされており、ぼくは廊下に椅子を置いて、そこにAさんに座ってもらった。
「こんばんは。ヒロと申します。医師です。今夜はどうなさいましたか?」
「恐ろしい声が頭の中から消えないんです」とAさんは顔をこわばらせていた。見つめる目も虚ろだった。
「どんな声ですか?」
「息子にクンニをさせて自分が快感を得ろ!と大声で命令する声です」
「この声が聞こえ始めたのは今日が初めてですか?それとも長い間あるものですか?」
「3か月ぐらいです」
「3か月の間、息子さんに実際に何かをしましたか?」
「いいえ。でも、妄想の中で息子に暴力を振るって体が血まみれになっている姿を何度か見ました」
「妄想の中で、と言われましたが、実際に暴力をふるってはいないんですね?」
「はい。息子は私の妹のところに住んでいるので、私が暴力を振るうことはできないはずです」
「なぜ息子さんはあなたのところではなく、妹さんと一緒に住んでいるんですか?」
「私がヘロインやコカインなどの薬物をやっているからです」
「最後にそれらの薬物を使用したのはいつですか?」
「2か月ぐらい前です。それからやっていません」
「お酒は飲まれていますか?」
「いいえ、お酒も2か月前ぐらいから飲んでいません」
Aさんは、自分の息子に性的・身体的虐待をしようとしている自分を責めており、「自殺したい」とぼくに打ち明けてきた。
ぼくは精神科の医師に、Aさんが妄想と自殺願望が理由で救急医療センターにいることを伝えた。もちろん、非合法薬物使用歴があること、子供に身の危険の可能性があることも伝えた。
その夜は本当に忙しくて、ぼくは精神科の先生に電話をした後、別の患者さんを診なければいけなかった。どれぐらいの時間が経ったのかわからない。でも、ぼくは思い出したようにAさんの状態を確かめに廊下に戻った。Aさんの姿はそこにはなかった。
精神科の先生がどこかの部屋に連れて行って診ているのだろうと思い、ぼくはまた救急医療センターの渦の中に巻き込まれていった。
救急医療センターの先輩医師が、Aさんはどうなった?と聞いてきた。精神科の先生に診てもらっていると思いますが、とぼくは答えた。先輩医師は、先に来ていた精神病の患者さんがまだ精神科の先生に診てもらってないから、Aさんはまだ診てもらってないはずだ、といった。
ぼくの中で嫌な予感がした。
ぼくは救急センターのビデオカメラを確認した。廊下の椅子に座って前後に体を動かしていたAさんがゆっくりと立ち上がり、そのまま救急医療センターの出口からふら~と出ていく姿が映し出されていた。
やばい。自殺願望がある人を外に出してしまった。
ぼくはすぐにこのことを上司に伝えた。そして警察に電話をして、Aさんがその辺をうろついているかもしれないから見つけたら連れ戻してほしいと伝えた。
ぼくはAさんと一緒に住んでいる母親に電話をかけた。午前2時ぐらいなのでもちろん電話にはすぐにでなかった。それでも緊急事態だったので、ぼくは電話をかけ続けた。5分ぐらいすると、Aさんの母親が電話に出てくれた。
ぼくはAさんが病院からいなくなったことを母親に伝えた。すると、「娘は家に戻っていますよ」と言った。よかった、まだ生きてる。
相手が母親であったとしても、患者さんのプライバシーは守らなければならない。ぼくは医者ー患者の関係を崩さない範囲で事情を説明し、母親にAさんを病院に連れ戻してくれるようにお願いをした。
「娘はもう眠っています。今起こすと癇癪をおこすかもしれないから、明日でもいいかしら?」
「いいえ、娘さんは精神科の先生に早急に診てもらう必要があります」とぼくは答えた。
救急医療センターに戻ってきたとき、Aさんは機嫌がすこぶる悪かった。いろんなことを言われたけど、Aさんが無事に戻ってきてくれたので、ぼくは安心した。Aさんが挿管したカニューレをぼくの目の前で引っこ抜いて血まみれになったが、それでもぼくはAさんが病院にいることに心をほっとさせた。
まもなく、精神科の先生が問診に来てくれて、Aさんはそのまま精神病棟に入院となった。