これから精神科で
実際に病歴問診を行った
患者さんについて書いていく。
患者さんとのやり取りを紹介することに
目的のようなものはない。
それよりは、
物語を傍観するような形で
ぼくの臨床研修を書いていくことにする。
もちろん、患者さんの描写や病歴は
プライバシーを保護するために
脚色が加えられている。
ただ、エッセンスはできるだけ
加工せずそのままにしてある。
(ケース4:男性D、65歳、紳士と怒りと妄想型統合失調症)
Cさんが出て行った後、
ぼくは部屋の隅に置かれていた
ウォーター・タンクからカップ半分ぐらいの水を次ぎ、
一気に飲み干した。
Cさんの想像妊娠の話の余韻が
頭に残っていた。
看護師のZさんは
その話を知っているのだろうか?
そもそも看護師のZさんは実在するのだろうか?
3人の患者さんの問診が終わったところで、
指導医のアンドリューが
入院の簡単な流れを教えてあげるから
ナースステーションに行こうと言った。
ぼくと友人はアンドリューのあとについて行きながら、
すごい話が聞けたという驚きを
顔の表情だけでお互いに伝えようとした。
ぼくの顔も友人の顔もカタチ、大きさ、性別は違うけれど、
心が映る鏡があるならば、
そこには同じ顔が浮かんでいたと思う。
Dさんをはじめて目にしたのは、
ナースステーションの外だった。
ナースステーションで
従業員のシフト表などの説明をしていたアンドリューが、
窓口の外で待っているDさんを見て
「ハロー、Dさん、買い物はどうだった?」と話しかけた。
Dさんは愛想よく、
「いい買い物ができました。
サンキュー、ドクター」と
丁寧に答えた。
Dさんは
手に持っていた買い物袋を
ナースステーションの窓口に載せ、
中からビタミン剤のボトルを3つ、
そして香水の入った箱を取り出した。
アンドリューに
「これらをわたしの元妻に渡すつもりで買ってきたから、
中身が安全であることを確認してほしい。
危険物と思われて病院が没収することないように、
しっかり確認してほしい。
お願いします、ドクター」と伝えた。
Dさんの口調は、
礼儀ただしい老紳士の原型が
しゃべっているようだった。
アンドリューが
「わかりました。それではお預かりします」
と答えると、
「サンキュー、ドクター」
とDさんは言った。
ぼくはDさんの表情や振る舞いを見ながら、
奥さんが入院されているんだなと想像し、
Bさん、Cさんのことを思い浮かべた。
うーん、たぶん違うだろうな、とぼくは思った。
ナースステーションでの説明が終わり、
アンドリューが最後の患者さんを読んでくるから、
さっきの問診部屋で待っていてと言った。
ぼくらは言われたとおり問診部屋に戻り、
最後の患者さんが来るのを待った。
少し待ち時間があったので、
ぼくはまたウォーター・タンクから
カップ半分ぐらいの水を次ぎ、
一気に飲み干した。
部屋の窓から中庭を見ると、
ウィリーワグテイルが
芝生の上でオシリを左右に振っていた。
部屋のドアが開いて入ってきた
最後の患者さんは、
Dさんだった。
Dさんは、
深緑色のツバ付きニット帽をかぶり、
あごの周りには白髪のひげを蓄えていた。
病院スタッフのパイナップルに比べれると、
Dさんのひげは綺麗にトリミングされていた。
Dさんはゆっくりと椅子に座り、
「わたしに病歴問診をしたい
医学生さんたちは、あなた達かね?
ドクターとお呼びしたほうがいいのかな、
ドクター?」と落ち着いた声で
ぼくたちに聞いてきた。
声は少し枯れていて、
その抑揚にはDさんの知的能力の高さが
見受けられた。
これは大変な病歴問診になるな、
とぼくは直感的に思った。
Dさんは35歳のときに
イランからオーストラリアに移住してきた。
イランではエンジニアの仕事をしていた。
「なぜオーストラリアに移住してきたのですか?」
とぼくが聞くと、
Dさんは自分がなぜエンジニアになったのか
ということから話し始めた。
3、4分ぐらいはその話をしていたのではないだろうか?
「なぜオーストラリアに移住してきたのか
という質問に簡単に答えてほしかったのですが・・・」と
Dさんの流れるような文章と文章の間に滑り込むと、
「あなたは、わたしを黙らせたいのですか?
それとも質問に対する答えを聞きたいのですか?
物事には因果関係があります。
結果を理解してもらうには、
原因を知ってもらわなければいけません。
このロジックを受け入れていただけないのであれば、
ぼくは黙ることしかできませんよ。」とDさんは答えた。
そして、Dさんは左手の親指と人差し指で輪を作り、
右の口元から左の口元へとそれを走らせ、
チャックを閉めるようなしぐさをした。
このような考え方をする人は少なくない。
ぼくも同じような考えにとらわれることがある。
しかし、ロジックは道具であって聖杯ではない、
とぼくは自分の人生で学んできた。
自分が犯した過ち
(つまりロジックへの傾倒による感情との断絶)
を思い出し、
Dさんにもその傾向があるかを調べてみることにした。
「それは失礼なことをしました。
話を続けてください」とぼくは言った。
Dさんはそれから4,5分ぐらい話をし、
イランで精神科の病院に
入院「させられた」ことを語ってくれた。
「そのときどんな思いでしたか?」
とぼくが聞いてみると、
「あれはイ・ロジカル(非論理的)だ」
と答えが返ってきた。
「なぜオーストラリアに移住してきたのですか?」
と言う質問に対し、
合計で30分ぐらいは話していたと思う。
読者には申し訳ないが、
正直ぼくにはその理由が分からなかった。
話を現在に戻し、
「オーストラリアの精神科に通っている
理由は何だと思われますか?」と聞いてみた。
「そんなことは担当ドクターに聞いてくれ。
ぼくはそこにロジックがあるとは到底思えないんだけどね」
とDさんはすこしムッとして答えた。
この病院に初めてきたときのエピソードを
教えてくださいとお願いすると、
Dさんは時系列に物事を話してくれた
(Dさんの話しには、かならず日付が出てきて、
最後にon the Christian calendarと付け加えられた)。
まず、1990年10月25日。
Dさんはオーストラリアで医者になろうと
近所の大学の本屋で参考書を探していた。
その動機を知ったオーストラリア政府は
わたしを不当に拘束した。
オーストラリアとイラン政府の陰謀で、
わたしは救急病棟に1日拘束された。
1990年10月26日。
わたしはこの精神病院に連れてこられ、
4日間隔離病棟に閉じ込められた。
「そのときどんな思いがしましたか?」
とぼくが聞いてみると、
Dさんはぼくの頭の左上をにらみつけ、
顔を真っ赤にした。
強く握り締めた右手のこぶしは
ぶるぶるとに震えていた。
ぼくはDさんの表情を見つめ
「ぼくが想像もできないほどの怒りが
あなたの中にあるようですね」と言った。
その言葉を聞いたDさんは
怒りに満ちた表情と態度を
いままでの老紳士のそれへ変化させた。
それは一瞬の出来事だった。
Dさんは
「わたしは怒っていない。
ただ、イ・ロジカル(非論理的)だと言いたいのだ」
と吐き捨てるように言った。
病歴問診中、
Dさんの治療の第一歩は
自分の感情(特にネガティブな怒りや悲しみ)を
認めることにあるのではないかと思っていた。
だから、Dさんがこぶしを震わせて、
憤怒を表現したとき、
ぼくの中にかすかな希望が芽吹いた。
正直
その怒りを表現できるほどの問診をできたことに
ぼくはすこし喜びも覚えた。
ただ、Dさんの自我を守るロジックはとても強固だったし、
なによりも感情と思考の断絶の崖は深く、
短時間ではとても越えられるものではなかった。
精神科における治療のゴールが、
「患者自身が自分を愛し
他人を愛するための一歩を踏み出すこと」
にあるのであれば、
感情を受け入れ表現することは
不可欠ではないかと思う。
自分の感情を受け入れないことは、
自分を受け入れないことにつながる。
そして自分を受け入れられないものは
他人を深く受け入れることはできないと思う。
ロジックに傾倒する人は、
「だから何だ?自分を受け入れて何になる?
他人を受け入れて何になる?」と考える(ぼくもそうだった)。
「だから何だ?自分を受け入れて何になる?
他人を受け入れて何になる?」に対する答えは、
多種多様にあるのではないかと思っている。
ただ、ぼく自身が学んだことは、
自分を受け入れ、
他人を受け入れてはじめて
答えが出る問題である。
ロジックに傾倒しすぎると、
「どうせ、すっぱい葡萄さ」
と言ってあきらめた狐のようになり、
実はこの疑問に真に答えていない。
人が何を考え何をするのかは、
個人の自由である。
Dさんが精神科の治療を不当と思い続けるのも
彼の自由である。
ただ、じぶんは同じ事を考え、
同じ事をしながら、
周りだけが変わっていくことを願うことを
「精神異常」
と定義しているひともいたなぁ、
とふと思い出した
2015年2月20日
on the Christian Calendar。