Tag: 休学

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オーストラリア医学部の卒業式に行ってきた

  ぼくには、「オーストラリアで温かい医者になる」という夢がある。   この夢を追いかけるために、ぼくは2014年からオーストラリアのパースにある西オーストラリア大学(UWA)の医学部に在学している。   2017年は医学部を休学し、日本に戻ってもうひとつの夢「日本人の英語を変える」に取り組んだ。1年の休学で色々なことに挑戦した。とても、充実した年だった。(←詳しくは、こちらの記事をどうぞ)   2017年の年末にオーストラリアへ戻ってきたぼくは、医学部の友人たちに再会し、医学部最後の年を留年しないためのアドバイスを求めた。(←詳しくは、こちらの記事と動画をどうぞ)   ぼくの学年には250名ほどの同級生がいる。数が多いので、すべての人が友達になるわけではない(顔見知りにはなるけど、お互い名前を憶えていないので、なんとなく疎遠になる)。   それでも、勉強が大変な医学部は、仲の良い友達ができる。お互いに大変なことが分かっているから、助け合う精神が磨かれるのだと思う。苦労を共にすると、なかなか得難い友情が芽生えるのだ。人によっては、愛情が。   2017年12月12日、医学部の友だちが一足先に卒業式を迎えた。   https://youtu.be/-rI0wfmmw5k   友だちは、1年間(長い人だと2年間)も会っていなかったにもかかわらず、ぼくの顔を見るなり1年生の時のように声をかけてくれた。   卒業式のセレモニー会場から出てきたみんなは、目がキラキラしていて、誇らしげな顔をしている。   そんな彼らの顔を見ていると、ぼくは自然に胸が熱くなった。娘を嫁に出すお父さんの気持ちはこんなものなのかもしれない。   医学部の時間は濃密なのに、一瞬一瞬があっと言う間に目の前を過ぎ去っていく。走馬灯のような瞬間を、あなたたちと共有できたことは、ぼくにとっての大切な財産です。ありがとう。   そして、医学部の卒業、本当におめでとう。I am very very very very proud of you!   来年は病院で会いましょう、ドクター。   ぼくも頑張りますので、皆様からの応援をお待ちしております!  

オーストラリアの医学生が休学中にチャレンジした9つのこと

  2017年、ぼくは「日本人の英語を変える」という夢に取り組むために医学部を1年間休学した。2016年に奨学金をもらいながらブルームで医学研修をしていたのだが、勉強中にもこの夢が頭の中のドアをどんどんと叩いていた。「おい、ひろ、こっちの夢はどうするんだ?」と。   大学(院)時代ほど自由な時間は無いことを知っていたぼくは、「オーストラリアで温かい医者になる」というもうひとつの夢を一時保留にして、1年間休学し日本に戻って「日本人の英語を変える」運動を始めた。   この記事では、ぼくが1年間の休学中に取り組んだことをまとめておこうと思う。   日本人の英語を変えるためにぼくが取り組んだこと   (1)アマゾン書籍出版 (2)英語コンサル (3)異能vation(総務省) (4)ビジネスを学ぶ (5)商標登録 (6)熊本災害ボランティア (7)タッチラグビー (8)ドリームシアターのライブ (9)医学部長からのお褒めの手紙     日本人の英語を変えるためにぼくが取り組んだこと   (1)アマゾン書籍出版   ブログのタイトルにもあるように、ぼくは高校中退者である。それも3か月で高校を辞めてしまうほど甲斐性の無い少年だった。それでも、終わっていた人生を自分でどうにかしようと、16歳の時に高認(大検)を取得し、英語に真剣に取り組むようになった。社会から断絶されたぼくは失うものが何もなかった。   オーストラリアで語学留学した後、アメリカと豪州で大学受験をし、オーストラリアの雰囲気のほうがぼくの性格に合っていたこともあって、オーストラリアで神経科学と遺伝学を専攻した。卒業後は、大阪市立大学と理化学研究所脳科学総合研究センタ-でサイエンスのお仕事に従事した。お仕事は心がウキウキするほど面白いものだったのだが、インドや東北沖地震でのボランティア経験がぼくに医学を志すきっかけを与えてくれた。オーストラリアにまた戻りたいという気持ちも強くなり、ぼくは医学部を3回受験し3回合格し、永住権が取れた3回目に入学を果たした。医学生になる前に、1年間エアーズロックでツアーガイドの仕事も経験した。   何者でもなかった自分が英語を通じて成長していく過程を、ほかの人に知ってもらい英語を頑張れるきっかけになればと思い、ぼくはアマゾン書籍シリーズ『高校中退から豪州医学部へ』を出版した。   ぼくの書籍は、読者の時間の無駄にならないよう必要のない部分はできるだけ削除した状態で出版したにもかかわらず好評をいただき、書籍『豪州医学部受験必勝法』にいたっては出版後すぐにアマゾン書籍1位(大学・大学院部門)に輝いた。     『高校中退から豪州医学部へ』は、個別のテーマ(高校中退など)をカバーしながらも、英語を勉強しているすべての人が英語を上達させるヒント(特にやる気を高めるヒント)をみつけられるようにデザインされた書籍シリーズとなっている。   ぼくの「日本人の英語を変える」夢に取り組むために、書籍シリーズ『高校中退から豪州医学部へ』を多くの人に読んでいただくために、期間限定で無料プレゼントすることを決めた。←お早めに。     日本人の英語を変えるためにぼくが取り組んだこと   (2)英語コンサル   アマゾン書籍『高校中退から豪州医学部へ』は、おもに英語で成功するためのマインドに触れているため、具体的にどうやって英語を勉強すればいいかという部分に触れられていない。この部分を強化するために、ぼくは英語コンサル(個人・会社)を行なった。   個別コンサルではおもに、英語で悩んでいる人たちをヒアリングし、その悩みを解決することに専心した。個別レッスンを行う家庭教師のような役割ではなく、その人に合った方向性を与えるコンサルタントとして、「日本人の英語を変える」運動に取り組んだ。   具体的には、英検1級に合格した人もいれば、TOEIC満点とった人もいる。留学前の高校生・大学生を相手に留学を200%充実させるためのアドバイスをしたこともあるし、企業担当者に社員の英語教育強化のコンサルをしたこともある。   ほぼすべてのケースは、友人などの紹介を通じたものだったため、無償で悩み相談を行った。今思えば、お金を払ってもらえばよかったと思うが(←お金を払わない人は頑張らない人が多いから)、ぼくが持っている英語学習におけるコツをたくさんの人に伝授できたことは良かったと思う。このコツは、アマゾン書籍無料プレゼントと一緒に送られてくるメルマガで公開している。     日本人の英語を変えるためにぼくが取り組んだこと   (3)異能vation   「日本人の英語を変える」という夢は、生半可な努力では実現できない。いまの日本にはびこっている「英語試験至上主義」という間違った常識を打ち壊すには、世の中を変えられるアイデアを持った人材がどうしても必要となる。   ぼくはiTELLian Awardという賞を通じて「日本人の英語を変える」異能な人材を発掘し援助を行うために、総務省が行っている異能vationの協賛企業として参加させていただいた(ぼく自身も破壊的な挑戦部門とジェネレーションアワード部門に応募した)。たくさんの応募に目を通したのだが、「日本人の英語を変えるアイデア」に出会うことは、残念ながら、無かった。それでも、あきらめることなく、来年も協賛企業として、また応募者として「日本人の英語を変える」運動を続けていこうと思っている。我こそは異能なり、という人は、ぜひとも英語教育に関連するアイデアを異能vationへ送ってほしい。     日本人の英語を変えるためにぼくが取り組んだこと   (4)ビジネスを学ぶ   ぼくが「日本人の英語を変える」という夢を語ると、ほぼ100%の人が「この人、夢見てんなぁ」という憐みの表情をぼくに見せる。ぼく自身は「できる」と本気で信じて活動しているのだが、どうしても「個人で活動している」という部分が足かせになっているようだ。そこで、ぼくは「日本人の英語を変える」運動をより多くの方に知ってもらい参加してもらうために、ビジネスを勉強し始めた。   ビジネスを始めた詳しい背景や実際にぼくが取り組んでいる勉強の内容はこちらの記事を読んでもらいたいが、科学者として訓練を受けてきたぼくにとってビジネスを学ぶことは自己の成長にもつながっている。この成長がいつか、「日本人の英語を変える」という夢に寄与してくれると信じている。     日本人の英語を変えるためにぼくが取り組んだこと   (5)商標登録   ビジネスを通じて「日本人の英語を変える」という夢を多くの人に知ってもらうことを始めたのだが、その一環として商標登録も行なった。ネットで出願方法を調べ、自分一人ですべてを行ったので、お役所仕事の面倒臭さが身に染みる経験となった。   また、PPAPで世間を揺るがせた上田育弘氏が、ぼくの商標と同じようなものを出願するという偶然もあり、ハラハラドキドキの商標登録となった。   https://www.youtube.com/watch?v=0E00Zuayv9Q     日本人の英語を変えるためにぼくが取り組んだこと   (6)熊本ボランティア   もちろん、ぼくは「日本人の英語を変える」という夢だけに打ち込んだわけではない。英語とは関係がないことにも、時間とお金を投資した。まず、熊本で起こった豪雨災害ボランティアがそれだ。   福岡に住んでいるぼくは、ニュースを観るなり、すぐに現地に飛んで行き、現地のボンラティア活動に参加させていただいた。数日ほどのボランティアだったが、グループリーダーとして貢献できたのではないかと思う。また、戻ってくるけんね、熊本。     日本人の英語を変えるためにぼくが取り組んだこと   (7)タッチラグビー   毎週の日曜日には、タッチラグビーの練習に参加した。メンバーのほとんどは大学生などの20代の人ばかりだったが、ラグビーとは違ってコンタクトがないため、怪我をすることもなく、爽やかな汗をかくことができた。熊本で行われた大会は、雨が降っていたにもかかわらず、優勝することができた(若い人たちが頑張ってくれたおかげ。ぼくはその陰で頑張っただけ)   2019年には、日本でラグビーワールドカップが行われる。タッチラグビーは、男女混交、老若男女でプレーできるスポーツなので、もっともっと認知されていいと思う。ワールドカップを盛り上げる意味でも、皆さんこちらの記事を読んで、タッチラグビーを始められてはいかがでしょうか?     日本人の英語を変えるためにぼくが取り組んだこと   (8)ドリームシアター   ぼくは、ドリームシアターが大好きだ。ぼくの感性を大きく凌駕するその複雑性や芸術性を持ちながらも、長年ぼくの心をとらえて離さない、稀代のプログレッシブメタルバンドである。   ぼくが最初に衝撃を受けた「Images and Words」を完全再現するライブを日本で行うということで、ぼくは広島に飛んだ。彼らのパフォーマンスは圧巻の一言である。とにかく、圧倒されてしまう。ライブがCDの音源を超えてしまう、本当に凄いバンドだ。   そのほかにも、ライブで仲が良くなった方がいたり、広島の美味しいものを食べたり、極めつけにはハンガリーの女性と出会いバーに一緒に行ったりもした。     日本人の英語を変えるためにぼくが取り組んだこと   (9)医学部長からのお褒めの手紙   2017年は、「日本人の英語を変える」という夢に取り組んだのだが、もうひとつの夢「オーストラリで温かい医者になる」という夢にも勇気を与えてくれるイベントがあった。   医学部長から「お褒めの手紙」をいただいたのだ。2年生の時にお世話になった心臓医の先生でもある医学部長からのお手紙は本当にうれしかった。ぼくの医学部の成績は平凡なのだが、勉強以外の部分で評価されたようである。どんなことでも、頑張っていればだれかが見ていてくれることを感じた瞬間だった。(誰かに見られるために医者になろうとしているわけではないが、先生方にお褒めの言葉をいただくと、素直に嬉しいものである)   2018年は、医学部の最終学年である。この喜びを胸に、「オーストラリアで温かい医者になる」という夢のスタートラインに立てるよう努力していこうと思う。  

九州北部豪雨、の災害ボランティアに参加しています

  2017年7月5日~6日、九州北部に記録的な大雨が降った。九州北部豪雨である。観測史上最大の降水量を記録したところもある。その大量の雨が原因で、各地は災害に見舞われることとなった。   https://www.youtube.com/watch?v=xKFKmCsXr-w   ぼくは変な性分の持ち主で、対岸の家事を目の前にして自分の指に刺さった棘を気にしている人たちに腹を立ててしまう。その苛立ちが耐えがたい衝動となり、ぼくを被災地へと突き動かす。てめえらみたいな人間にはなりたくねぇ、と背中で語りかけるかのように。それでも、彼らはぼくの背中を見ることは無い。自分の指に刺さった棘をじっと見つめている。   ぼくは東北沖地震のボランティア経験があったので、まずはボランティア活動保険に加入することから始めた。保険に入っていないとボランティア活動をさせてもらえないこともあるので、ボランティアをしたい方は必ず加入することを強くお勧めする。   ボランティア活動保険の証明カードを片手に、ぼくは、食料と水、そして着替えが入ったバックパックを背負って、朝倉市へと足を運んだ。朝倉市は、九州北部豪雨で甚大な被害を受けている地域のひとつだ。   早朝、薬院駅から西鉄大牟田線の急行便に乗り、朝倉街道に向かう。電車の中には、中年のサラリーマン・ウーマンたちが眠たそうに携帯を眺め、初々しい高校生たちがコソコソ話をしながらクスクス笑っている。どこにでもある記憶に残らない光景のはずなのに、なぜか心が温まる。   朝倉街道駅に着くと、駅のすぐそばにある杷木行きの西鉄バスに乗り込む。一緒に乗ったのは、ぼくのほかに1人の女性と、1人の女子高生だった。バスは、朝の静けさを、カーテンを開けるように裂いて行った。   途中にバスに乗車してきた小学生は、昨日の夜のテレビの話をしている。テレビを見ないぼくと小学生の間にはもうすでに知識の溝ができているのが感じられた。こうやって、子供は大人を超えていくのだろうか。   ぼくは下調べもあまりせずに朝倉市内に設置されている自衛隊の災害本部に行ってしまった。そこに行けばいいかなぁ、という安易な発想だった。自衛隊の皆さんは忙しそうに動いていたので、甘木公園に散歩に来られていた70代の男性に、ボランティアの受け入れの場所はありますかと聞いてみた。よくわからないと言われ、ぼくは結局自衛隊の災害本部の事務所に聞きに行った。   朝倉市役所支所のそばに災害ボランティアセンターがあると言われた。そしてぼくは近くのミニストップでおにぎりふたつ(朝食)を購入し、バスが来るまで待つことにした。早朝にもかかわらず、太陽の日差しはぼくの肌をジュ―と照り付けた。   おにぎりを食べて生茶を飲んで少し満足したころ、バスが細い道路を通りながら目の前に留まった。比良松中学校のバス停で、ありがとうございました、と言って下車をした。   災害ボランティアセンターのしるしが書かれていたのだが、結局どうやっていくのかわからず、長靴を履いて作業服を着ている男性にセンターの行き先を聞いた。   災害ボランティアセンターに着くと、災害ボランティア活動保険を持っている人と持っていない人の列が用意されていた(持っていない人はここで加入できる)。ぼくは保険を持っているので、となりの長蛇の列を特急列車のように追い抜き、登録とオリエンテーションを受けた。   オリエンテーションの後に、10人組のボランティアチームが結成され、ぼくがリーダーとなった。チームには、60代ぐらいの男性がふたり、50代の男性がひとり、30~40代の男性がふたり(うち一人はぼく)、20代の男性がひとり、20代の女性がひとり、そして現地の高校に通っている女子が3人いた。高校3年生の女の子が学校を休んでボランティア活動しているなんて、涙が出てきてしまいます。   https://www.youtube.com/watch?v=jnNvTTDZJvc   ぼくらに与えられた任務は、古毛(こも)にある民家の泥を掻き出す作業だ。災害ボランティアセンターでシャベルや一輪車などの資材を借り、1台の軽トラックと1台のハイエースに乗り込み、民家まで移動した。   車で移動している間、フロントガラスやヘッドライトが粉々になった自動車や、地面が崩落し、建物が今にも横転してしまいそうな民家などが見えてきた。   ボランティアチームは、民家の方に「お邪魔させていただきます」と挨拶をして、泥掻きの作業に取り掛かった。チームのみんなは、皆真面目で、さぼり癖が身に沁みついているぼくには、いささか大変な作業となった。   チームに女性陣がいたのがその原因かもしれない。女性が近くにいるだけで、男性は働きものになるのだ。男って単純、なのだ。本当に。   それでも、照り付ける太陽の力は、ぼくらの体力を確実にそして急速に奪っていった。最初のうちは短い休憩時間を取れば次の作業に取り掛かれたのが、徐々に長い休憩時間が必要になっていった。   ボランティアが倒れては二次災害と言われかねないため、ぼくは定期的に休みを取り、給水を勧めた。持ってきていた塩飴をみんなに配り、熱中症にならないように気を付けてもらった。   やらなければいけない作業をすべて終わらせることはできなかったが、チームとしてできることはできたと思う。ご主人が悲しさと嬉しさが混じり合った表情をしながら、みんなに頭を下げていた。   九州北部豪雨のニュースは、徐々にメディアから消えつつある。それでも、やることは山積みになっている。災害ボランティアがいなくなっても、経済復興という大切な援助が必要となる。落ち着いてからでもいいので、ぜひ朝倉市を訪ねて、名物の藤井養蜂場ソフトクリームとハトマメ屋のお菓子は味わっていただきたい。美味かよ~。   ↓↓チームメンバー+ひとりの男性   追記:朝倉市災害ボランティアセンターに行く方は、ぼくみたいに遠回りせずに、朝倉街道のバス停から比良松中学校のバス停に移動しましょう。比良松中学校のバス停を降りると、道路の向かい側に朝倉市役所支所(市役所じゃないよ、市役所支所ですよ)があり、そのそばに朝倉市災害ボランティアセンターがあります。    

九州北部豪雨、の災害ボランティアに行ってきます

  2017年7月5日~6日、九州北部に記録的な大雨が降った。九州北部豪雨である。観測史上最大の降水量を記録したところもある。その大量の雨が原因で、各地は災害に見舞われることとなった。   https://www.youtube.com/watch?v=xKFKmCsXr-w   ぼくは変な性分の持ち主で、対岸の家事を目の前にして自分の指に刺さった棘を気にしている人たちに腹を立ててしまう。その苛立ちが耐えがたい衝動となり、ぼくを被災地へと突き動かす。てめえらみたいな人間にはなりたくねぇ、と背中で語りかけるかのように。それでも、彼らはぼくの背中を見ることは無い。自分の指に刺さった棘をじっと見つめている。   ぼくは東北沖地震のボランティア経験があったので、まずボランティア活動保険に加入することから始めた。この保険が無いせいでボランティア団体に活動を断られることがあることを知っていたからだ。   ボランティア団体に所属しなくても、自分ひとりで活動することもできる。しかし、ボランティア活動保険には加入することをお勧めする。東北沖地震のボランティア中に釘を垂直に踏んだことがあるぼくからのアドバイスでもありお願いだ。保険があるのとないのでは、もしもの時の安心感が全然違うものになる。   ぼくがボランティア活動保険に加入したのは、福岡県が行っていた災害ボランティア説明会(7月12日19時~)だった。100名定員の説明会に120~130名ほどの有志の人たちが集まっていた。老若男女すべての人がいたし、メディアもいた。参加者の顔は真剣な面持ちの人が多く、みんな真剣に説明を聞いていた。話された内容は、だいたいこんな内容である。   出典:dazaifu-volusen.sblo.jp   ボランティア活動保険(天災A)の500円を支払い、カードをゲットしたぼくは、ボランティア活動の準備をひとり始めるのだった。これから暑い日が続くから、水だね。水&塩。ぼくができることは微々たるものだけど、ぼくにはあなたに会いに行くことはできる。待っててください。   ぼくがやることはふたつ。ひとつ目は、民家を訪ねて何ができるかを聞いて、ぼくにできることは協力し、できないことは町役場に報告すること。ふたつ目は、フリー・ハグズ!   フリー・ハグズを知らない人はこちら↓↓ https://www.youtube.com/watch?v=vr3x_RRJdd4   フリー・ハグズのサインを見た人は、寄って来てね。そして、他の人にもフリーハグを与えてね。    

著書第8弾『ウルルん・ツアーガイド日記』

  陽の当たり方によって 濃淡がはっきりと変わる 鉄を含んで赤みを帯びた砂岩   枯れ草、枯れ木の あいだをニョロニョロ 猛毒キングブラウン   カタジュタの散歩道に立ちはだかる 世界で2番目に大きいトカゲ ペレンティ     滅多に見ることができない でも観光客には人気がない 雨に濡れたエアーズロック   文化的な理由から ウルルの登山はしないで と入口には書かれている。   登山口が開くと そんなことも気にせず 我先に登っていく新婚さん   同僚のイタリア人から 日本人は文化的リスペクトが無いね と冷笑される   休みの日は あの娘をデートに誘って 芝生の上でギターと歌   夕方になると 誰もいない赤いロードを ケツメイシの音楽を聴きながら走る   砂丘の上の椅子に座って 落ちていく夕日を眺め ウルルとカタジュタに感謝    

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