あるYoutube動画
あるYoutube動画を見ていて、
ふと思ったことがある。
レスリングの動画なのだが、
知らない人のために簡単に説明する。
中学生ぐらいの体の不自由な少年が
大人に担がれてリングに入場する。
レスリングの中央に横になったまま、
少年は試合相手の少年とまず握手をする。
審判が始めの笛を吹く。
立っていた相手の少年はひざをつき、
右腕を取り体の不自由な少年の下にもぐりこむ。
相手の少年は
右腕に首をとられた形になり、
体を起こそうとして逃げようと試みるも
フォールの判定が下り、
体の不自由な少年の勝利となる。
勝利した体の不自由な子は
体全体で喜びを表現し、
周りの観客は拍手で喜びを分かち合う。
最後に負けた少年は
最後に握手で敬意を表する。
Youtube動画に寄せられたコメント
ぼくが考えさせられたのは、
動画よりもその動画に書き込まれたコメントである。
「体の不自由な子供の気持ちを考えていない」
と書いている人がいた。
プライドが傷つくとか
自尊心が育たないという類の意味が
含まれているのではないかと推測する。
このコメントは、
動画の意図を批判をしているのだ。
批判することは大いに結構だと思う。
ただ、建設的な批判であってほしいと思った。
建設的とは何か?
「体の不自由な子供の気持ちを考えていない。
子供の気持ちを考えるなら・・・であるべきだ。」
とひとつ提案を入れることが大事である。
そうすることでそこに健全な議論が生まれる。
ぼくが大事だと考えること
ただ、
本当に考えさせられたことは、
「建設的な批判」のことではない。
ぼくが考えていたことは、
賞賛もされない批判もされない
生き方をしていてはいけないということだ。
これはぼく自身に向けたメッセージである。
何かを考え実行し、
それが「我」という円の外に出て
「他」の円に交わるとき、
なにかしらの反響がある。
あるときは賞賛かもしれない。
あるときは批判かもしれない。
あるときはむこうで新聞紙を読んでいる目が
ちょっとだけこちらを見るだけかもしれない。
試合のマッチ・アップを考えたのは、
レスリングのコーチだと思う。
コーチはコーチという「我」の円を越えて
「体の不自由な子」の円に入り、
何かをしてあげようとしたのだと思う。
人が他の人のために何かをするとき、
そこにはかならず賞賛と批判がある。
ただ、コーチにとっては賞賛も批判も
所詮は副産物である。
コーチにとって大事なことは、
他人のために考え実行したことにある。
それこそが実りだと思う。
自分を成長させるために
人はある程度まで成長すると
「我」の円を越えて
「他」の円に入らざるを得なくなる。
そこにしか
「我」の成長を見出すことができないからだ。
すこしでもましな人間になりたい
という欲求を満たすには、
賞賛も批判も受けるような
生き方を選ばなければいけない、
とぼくは思う。
賞賛もされない批判もされない
生き方をしている限り、
「我」の円を越えることは無い。
そして、「他」の円に触れることさえできない。
正直、
賞賛も批判も敬遠して
野良猫のように
ひっそりと気ままに生きていきたい。
でも、自分の壁を越えて生きるためには、
賞賛も批判も、
真っ暗な細道にひっそりと立つ街灯のように
避けられないものなのかもしれない。
にゃー。
記事の絵は、
井上雄彦さんの作品「バガボンド」より。
生きることに苦悩する人はぜひ読んでもらいたい。