Aさんに初めて会ったのは、病院のエレベータを待つ踊り場だった。
その日は急性疾患医療のローテンションの初日だった。ぼくは急性疾患医療病棟に向かうためにエレベータに乗った。エレベータのドアが開いた瞬間、複数のセキュリティの男性と女性に取り押さえられているAさんの姿が目に入ってきた。
Aさんは16歳。近所の高校に通う学生だ。学校の成績はトップグループに入り、部活はネットボールの副キャプテンを務めている。学校での友達関係も良好なようで、仲がいい友達が7,8人いて、Aさんはリーダー的な存在だ。
Aさんが病院の踊り場で取り押さえられていたのは、病院から抜け出して自殺を図ろうとしたことが原因だった。Aさんはエレベーターの踊り場で「お願いだから死なせてください」と大粒の涙を流しながら叫んでいた。
そんなAさんは先日、両親に連れられて救急病棟に運び込まれた。ご両親の話によれば、ここ5か月間ほど食事を取ることを拒否し、体重が3か月の間に60キロから45キロまで減ったのだという。Aさんの身長は170センチぐらいなので、BMIが20.8から15.6まで落ちたことになる(健康的なBMIは18.5から24.9)。
急性疾患医療病棟には神経性無食欲症の患者さんが頻繁に入院する。神経性無食欲症は精神科の治療が必要になるのだが、患者さんが急患で運び込まれた場合、まず経鼻胃チューブを入れてゆっくりと食事を与え、栄養と電解質の補充などを行わなければならない。腹が減っては戦(精神科治療)はできぬ、というわけだ。
Aさんが食事を拒否するようになったの約5か月前。学校の知り合いから「痩せる薬」を売ってもらうようになってからだ(薬の正体は忘れてしまったが、おそらくベンズフェタミンだったと思う)。
入院してきた当初、Aさんの意識は朦朧としていた。しかし、数日間の経鼻胃チューブの食事を取ると、意識の状態も回復し、すこしずつ元気になっていった。
Aさんは数日の食事のおかげでエネルギーを取り戻した。ただ、そのエネルギーは、自殺を図るための病院からの逃亡という形で発散された。Aさんが自殺未遂を起こしたのは初めてではない。Aさんを知る精神科の先生はそう教えてくれた。
Aさんのお父さんは近所の町の議員。お母さんは近所の大学で教鞭をとる准教授。姉さんがひとりいるが、姉はすでに家を出てシドニーで働いている。Aさんがまだ幼かった頃、両親はとても忙しく、Aさんはお姉さんと一緒に時間を過ごすことが多く、親の愛を受けていないと感じながら育った。
詳しい精神鑑定の話は控えるが、「親にすら愛してもらえない人間が、ほかの人から愛されるわけがない」という感情が、思春期に目まぐるしく変化する性ホルモンの波にのまれて、神経性無食欲症と自殺願望として顕在化したのだと精神科の先生は語ってくれた。
数日後、急性疾患医療病棟から精神科病棟に移送される途中、Aさんは病院を逃亡しハイウェイを走っていた車に飛び込んで自殺した。