コーヒー喫茶ドバイ―のドアは開いたままになっており、ぼくがお店に入ると、70代の男性と、同じく70代の女性が椅子に座って話をされていた。ぼくがお店に入ったことに気づくと、女性(以下、お母さん)はキッチンへ、そして男性(以下、お父さん)はお水をコップに注ぐ用意をした。
ぼくは、「こんにちは」と挨拶をし、店の真ん中のテーブルに腰を掛け、テーブルの上のメニューを眺めながら、何を食べるかを少し考えた。
店の中にはお客さんはおらず、テレビの画面には、小熊と母熊の生存する姿を映したネイチャー番組が流れていた。お父さんが、お水をぼくの前に置いた。
ドバイーには、80種類近いメニューがある。中には、どんなメニューか分からない「花子さん」 や「太郎くん」などがある。お父さんによると、このメニューの多さは、お父さんとお母さんだけでなく、子供さんたちと一緒に考えて作り上げたものだという。
ぼくはお腹が空いていたので、戦前の広島お好み焼きを再現している「ドバイ焼き」にアツアツのチーズとハンバーグが乗っている「ドバイ焼きヤング風」を注文した。
お母さんがキッチンでドバイ焼きを作っている間、ぼくはお父さんにお店の名前「ドバイー」の由来を尋ねた。
お父さんは、コーヒー喫茶「ドバイ―」が創業された前の年に、「ドバイ日航機ハイジャック事件」があり、そのインパクトが大きかったことがひとつの理由だという。そして、ドバイには、砂漠が多いにもかかわらず人が集まるオアシスのイメージもあるということで、「ドバイ―」にしたという。
喫茶店のオーナであるお母さんは創業から43年間(!)、お母さんの母から教えられた「古き良き広島風お好み焼き」をぼくらに焼き続けている。喫茶店ドバイ―は、43年間変わらない、食欲をそそる香りを外に運びながら、広島市民を虜にし続けている。
お父さん(皿洗いの役目らしい)とは、たくさんのお話をさせていただき、野球球団広島の樽(たる)募金の話、戦後にマツダのオート三輪が活躍した話、針の生産は広島が全体の90%以上を占める話、という一般的な話だけでなく、お父さんとお母さんのなれ初め、お父さん自身も原爆の被爆者であること、そして、原爆で手と腕の皮膚がただれ落ちて亡くなったお兄ちゃんの話など、プライベートな話もしていただいた。
お父さんは、核兵器禁止条約に批准しない日本政府の方針を広島は受け入れられないということも強く語っていた。この話は、感情的なものではなく、政治的・経済的な要因を冷静に考慮してもなお受け入れられないという「静かなる拒絶」であった。